スタッフダイアリー


2024年1月20日

こんにちは。
従業員の成果を正当に評価するのが困難であることの原因の一つに、自尊心の問題があると思います。評価者が、評価の対象(範囲)として「成果のみ」に注目したつもりでも、被評価者にとっては違います。被評価者にとって評価の対象(範囲)は、成果自体というより、成果と一体となり切り離せない関係にある「自己自身」の方にあることが大半だと思います。また、評価には対象(範囲)だけでなく、質や深さの問題もあると思います。二要因理論で「満足」と「不満が無い」が決定的に異なるように、評価において「称賛する」のと「非難しない」のは別次元です。称賛と非難を両極とする一本の連続的なスペクトラムを想定した場合、あらかたの評価結果は、「称賛するほどでもないが非難するようなものでもない」といった中間地点(つまりスペクトラムのほぼ全体を占める「非難しない」のゾーン)のどこかに落ち着くはずです。しかし被評価者のパーソナリティーによっては、自身の評価結果が片側の極である「称賛」以外では、全面的に非難されたと感じる人もいます。スペクトラムなどまるで無いかのように。評価者にとっては信じがたい状況です。これでは毎回称賛する他なく、評価自体の意味がなくなります。それどころか誤った進行に歯止めをかけることができなくなります。多くの人にとって「自尊心」は仕事の原動力の1つであると思います。そうでない人も一定数いるでしょうが、そうである人の数の方がおそらく多いでしょうし、少なくとも無視できるほどのマイノリティーではないのが現状だと思います。その意味、従業員個々人がその内面に抱くそれぞれの自尊心は、企業にとって欠かせない無形の経営資源の1つといえるかも知れません。しかし、その自尊心が「成果」と一体化すると、時に従業員の評価をいびつなものに変質させ、災いの元にもなります。企業経営に限らず、人間関係で起こるトラブルの大もとを辿っていくと、人が生み出す「成果」と「自尊心」の行き過ぎた一体関係に最終的に行き着くのではないかとも思います。それくらい「成果」と「自尊心」の結合は厄介な問題だと思います。近年、仕事(生産の場)に生き甲斐を求めるのではなく私生活(消費の場)に生き甲斐を求めよといった論調を目にする機会が増えました。これは、不確実性の増大を受けて環境適応するなら「成果」と「自尊心」の関係は完全に分離すべきとまで言わないにしても(仕事の原動力に関わるため)、ケースに応じて多少緩めるのが望ましいと考えられる一方で、依然として従業員の内面においては両者の関係が常時緊密であると、もはや業務の進行に重大な支障を及ぼしかねないという危機意識から来る、企業側からの悲痛な要望であるように、私には聞こえます。

2024年1月15日

こんにちは。新年最初の日記です。
前々回、目標設定における2つのアプローチとして、バックキャスティングとフォアキャスティングの話を書きました。理想から逆算するのか、現状から積み上げるのかといった話です。今回はこれに追記したいと思います。理想から逆算する方式のバックキャスティングにおける「理想」には、自らの内発性を起点に思い描くもの(≒望ましい姿)と、それとは反対に、内発性と無関係に思い描くもの(≒あるべき姿)の2種類があると思います。どちらの種類の理想が良い/正しい/美しいなどと言うつもりはありません。ただ、後者の理想、つまり自らの内発性と無関係に「あるべき姿」を構想するのは、一見禁欲的でありながら、限りなく機会主義(日和見主義)に近づくような気がします。未来はこうなるからとか、これからはこれが正しいからとか、そうしたいわば「総体の意思」のようなものに自己の理想をかこつける、或いは、迎合させる感があるということです。繰り返しますが、だから良い/悪いといったものではありません。ある意味では特殊な利害を離れ、ストイックで客観的な理想のですが、「自分の意思だけではどうにもならないもの」に容易く屈服している感も否めず、目標に向かって力強く推進していく原動力としては少し心もとないものがあります。仮に未来のある時点における、自己を取り巻くありとあらゆる外的環境を完璧に予測できる状況があるとして、それに首尾よく適応したり、利得を最大化したりする行為に走るのは、圧倒的な現実を目の前にして、現実をあたかもゲームの一種としてどうにか相対化しようともがく態度のようにも見えます。これを機会主義と言わずして何というでしょう。一方、現状から積み上げる方式のフォアキャスティングでは、「理想」はあくまで「現状の裏返し」や「現状の連続的な更新」としてしか捉えられません。そこで改めて、目標設定の動機や理由を思い出したいものです。それは少なくとも現状とは違う位置に行くことだったはずです。では、どうして現状とは違う位置に行きたい(行く必要があると思う)のでしょうか。その根源的な動機は、やはり内発性という他ないようなある種の「衝動」だと思います。その衝動をまるで無かったかのようにストイックに理想を思い描くことや、単に現状の延長線上に理想を位置づけることは、どこか現実に遠慮しているか、そこまで言わずとも、落ち着き払って理想を思い描くという「静かな構想」を敬遠しているように思えます。企業経営において「強みを活かす」とか「ニーズに対応する」といった表現をよく見かけますが(私も職業上そういう表現をします)、そうした表現をすると、まるで「強み」とか「ニーズ」といったものが、主観とは独立し、手に取って扱えるような客体として存在するものと錯覚してしまいます。これは私の完全な主観ですが、企業経営はそれほどまでに科学的に徹底した営みではないと思っています。

2023年12月22日

こんにちは。
当初確かに存在したはずの理念的なものが、時の経過と共に次第に減衰し、やがていびつなものへと変質していく様をよく見かけます。具体例を挙げるとキリがありませんが、「経営理念」は間違いなくその1つであると思います。抽象的で多義的に解釈できる分そうなりやすいのかもしれません。あるいは、抽象的でイメージしにくい分、多義的な解釈といった以前にそもそも関係者の記憶に定着しにくいのかも知れません。あるいは、利害の荒波に揉まれて否が応でも原形が変わっていかざるを得ないのかもしれません。経営者が、形を変えながらも基本的には同じ内容のメッセージ(理念を具現化した方針や戦略など)を社内に向けて繰り返し発信し続けなければならないのはそうした性質によるものと思います。当の経営者からすれば何度同じ話をすればいいのかと、時に腹立たしく感じることもあるでしょう。少なくとも私はその1人という立場です。まして最近では、「伝える」と「伝わる」は違う/伝えたつもりでも伝わっていなければそれは受信する側ではなく発信する側に問題があるのだと言われるような風潮です。一方で、理念的なものが、その直進過程で一切減衰せず、歪曲されず、瞬時に関係者の内面へ正確に複写されるとしたらどうでしょう。これはこれで大変不気味です。うかつな事は言えなくなります。もちろんうかつな事を言うつもりは一切無いにしても。言ってもすんなり伝わらないことで実は経営者の方が救われている面もある。そのように考えると幾分気休めになるかも知れません。経営者の中には、理念的なものの伝播に付随する上記の性質をよく理解し、直進過程で原形が変わるのを見越した上で、時の経過と共に関係者の内面で多義的解釈が収束するちょうどの頃合いで本来伝えたいと思っている原形に近づくよう絶妙に形を調整してメッセージを発信しておられる方もいるかも知れません。姑息といえば姑息ですが、もしそうした手法があるのなら一度は拝聴してみたいものです。

2023年12月10日

こんにちは。
目標設定をする際、大きく分けて2つの方法があると思います。すなわち、①「理想」を描き、現状との比較によって課題などを検討する方法と、②「現状」をベースに実行可能なものを積み上げていく方法です。①をバックキャスティング、②をフォアキャスティングと言ったりもするそうです。現状から出発することの弊害は、把握すべき現状の範囲が曖昧になることだと思います。なぜなら「現状」は無限大だからです。目標と関係ない事も「現状」に含まれてしまいます。結果として、多くの場合、現状の悪い点(問題点)ばかりに焦点が当たってしまうと思います。これでは永久にもぐらたたきをやる羽目になりかねません。また、現状の延長線上に理想を位置づけたり、現状の裏返しとして理想を設定したりしやすいことから、仮にベストな解が「現状維持」(これ自体とても大変な事です)という時でも、その解を棄却してしまいかねません。そうすると、現状からも後退する羽目になってしまうと思います。では、理想から出発する方が良いか? 理想を描くにはある程度視界がクリアである必要があると思います。自分の置かれた状況をよくわかっていない人が「理想」を描こうとしても、最初の取っ掛かりがなくて困惑するかも知れません。ということは、やはり「現状」をよく知っておく必要があるということになります。しかし先に書いたとおり、「現状」は無限大で捉えがたいものです。現状をよく知りつつ、しかし現状から出発するのでなく、あくまで理想から逆算する形で目標設定をしたいものです。どうしたらよいのでしょうか。私が思うに、例えば致命傷にまで至らない小さな実験を自分なりに発案し、それを繰り返し行いながら反応をよく観察する⇒そこで得た知見を自分なりのフレームで整理していく⇒その知識体系を日々ブラッシュアップしながら、より大きな歴史の流れに主観的に位置付けていく。非常にざっくりではありますが、こうした日常的な訓練が欠かせないと思います。要するに、目標設定には一定のコスト(お金という意味より認知活動全体としての負担)を支払う必要があるということです。こうしたことからも、巷で見かける「無料診断」の類いが如何にあてにならないか分かります。目標は、他ならぬ「自分」が試行錯誤の末にようやく発見するものだと思います。その負担のほとんど全てを免除しようとする業者の行為などは一見親切でありながら、結局誰のためにもならないと思います。