スタッフダイアリー


2023年11月23日

こんにちは。
賃貸住宅の管理業をしていて特に思うことは、ゼロベースで考えることの大切さです。空室物件があるとして、それを埋めるのに様々な施策を検討するわけですが、その際管理業者は賃借人と賃貸人とのトレードオフの関係を慎重に吟味する必要があります。需要と供給のシンプルな論理でいえば、賃借人はできるだけ賃料を抑えつつ高い便益を希望するのに対し、賃貸人はできるだけコストを抑えつつ高い賃料収入を希望するわけです。サービス継続のために管理業者としての利益も必要です。リフォームやリノベーションを請け負う取引業者の利益も必要です。生活の基盤である住宅ゆえに利害関係者の数は多く、また各主体が保有する情報量の差は大きく、取引金額も大きく、関係する期間も長期に渡るだけに、誰かが割を食うような取引では長続きしません。建物単体で見てもその状態は刻一刻と(人が寝ている間も)変化し続けています。建物の周辺環境や近隣における取引相場なども同様です。管理業者としては、こうした変化を踏まえ、しかし変化に対して単に受け身でもなく、新しい価値を提供したいものです。そのためには常にゼロベースで臨むしかありません。前例踏襲や継ぎ足しのような発想、テンプレート対応、成功事例の表面的な模倣などでは立ち行かないと思います。しかし、こうした基本姿勢を守り抜ける人がどれくらいいるでしょうか。考えることや調べることに億劫になったり、四則演算のような初歩的な計算さえきちんと行わない人を見かけます。計算一つもまともにしないようでは利害得失の行方は全くの風まかせという事になります。たとえそれで損するのが取引を推進する「自分」であっても気づかないという。また、法令のチェックや、法令には定められておらずとも職業倫理や道義的観点から考慮することが社会的に期待されるものについて、いわゆる熟練者と呼ばれる人ほど著しく盲目的になりやすいようにも思います。建物の存続期間はときに人のライフスパンを超えるだけに、その禍根は、現在の利害関係者だけでなく、ずっと先の後続世代にまで及ぶことを意識する必要があると思います。

2023年11月22日

こんにちは。
何かを漠然と感じながらもさして注意を向けていない事柄について、それを意識の水面に引き上げ、どのような表現でも構わないのでとりあえず言語化する。個人差はあるでしょうが、私自身を含め、多くの人はこうした左脳的な言語機能をアイドル状態にして日々の生活を送っているように思います。その方が省エネだと知っているからです。いちいち言語化したり意識的に選択していては日常生活など成り立たないように思います。ある小説で、「良いニュースというのは、多くの場合小さな声で語られる」という台詞がありました。言い換えるなら、日常生活はあまりに示唆に富み過ぎていて、その一つ一つを拾うのは手に負えないということだと思います。そうした中で、半ば偶発的に拾い上げた示唆と強く共鳴したとき、事後的に「小さな声」の存在に気付くことになります。物事には始めと終わりがあるものですが、終わってあとから振り返ったとき、始めと終わりの間にもいくつかの小さな「始めと終わり」があり、その「始めと終わり」の間にも更に小さな「始めと終わり」があり…というふうに、同型の入れ子構造をなしていると思われる瞬間があります。そう思う瞬間には、もう次の「始めと終わり」の過程にいるわけですが、現在自身が置かれているこの「始めと終わり」は、これまで辿ってきた無数の「始めと終わり」の延長線上にあって、過去に体験し終えた「始めと終わり」とやはり同型を辿るのではないかと思われる瞬間もあります。その意味で、現在置かれた自分の“この感じ”は一体何だろうか? と意識的な言語化を試みる行為は、過去に体験し終えた「始めと終わり」を参照する態度の1つであると思います。そうして自己同一性が強化されていく気がしますが、先に書いたとおり、日常生活の大部分において左脳的な言語機能をアイドル状態に留めておくことの、省エネ以外のもう1つの理由として、自己同一性に対する倦怠感があるのではないかと思います。どれだけ意識的に、どれだけ注意深く解釈したり選択したりしたところで、結局は過去の集大成に過ぎない/自己同一性の檻から出ることはできない/それならアイドル状態で構わない…といったように。そのように考えると、「小さな声」の正体とは、この気だるい循環を束の間忘れさせてくれる興奮剤の一種にも思われます。

2023年11月21日

こんにちは。
年齢を重ねると良くも悪くも自分らしくなっていくと思います。その要因は以下のような過程にあると思います。すなわち、経験が豊かになり環境を程よく制御できるようになる → 想定外の事態が少なくなる  その有能感が自分を更に確からしくするための発見や検証に向かわせる → 反対に自分らしさを脅かす事物に対する抵抗力は肉体的にも精神的にも低下する → そうしたものは事前に回避するか不意に遭遇しても手際よく排除する(それができる経験知を身につけてもいる) → 自分らしさが強化される → 最初に戻り、以下繰り返し といった感じです。私自身も身につまされます。例えば、書店を歩いていて目を奪われる本は、自分が欲しい結論が書いてある本だったりします。それならわざわざ読む必要など無いわけです。しかし、そうと薄々気付いていながらつい買ってしまう。読むとやっぱり自分が思っていた通りだと確信する。…これでは読書体験とは言えません。こうしたことは、個人だけでなく組織にも襲いかかると思います。経験曲線効果でぐんぐん賢くなっていくと、やがて「有能性の罠」とか「イノベーションのジレンマ」にはまるというわけです。更にこじれると、改善とか改革といったものを疎ましく思うようになったり、例えば若い人の未熟さゆえの失敗をあざけるようになったりします。そうして崩れ落ちていった組織を、私は過去に見たことがあります。どうしたら自分らしさの良い点を生かしつつ、悪い点を克服できるのでしょうか。ありきたりではありますが、キーワードはやはり「偶然」ではないでしょうか。できるだけ自分から遠く離れる。予想外のものに出会う。幼かった頃のように「自然にそうなる」というのはもはや無理ですから、「意図してそうする」。その地平から今の自分とその環境を問い直す。いくつになっても、それができる程度の基礎体力は確保しておきたいものです。「健康」という名の資源は、単に自分らしく生きるためというより、むしろ自分らしさを懐疑するための多様な試行錯誤に充てられるべきものと思います。

2023年11月20日

こんにちは。
人件費は基本的に固定費です。つまり人を採用すると固定費が発生します。企業は利益を追求するものと想定したとき、発生した固定費をそのままにしておくわけにはいきません。企業が新たに人を採用する中心的な理由は「今より利益を増やすため」ということになるでしょう。企業が本業で利益を増やす方法は、売上を増やす・費用を減らすのいずれか或いは両方です。更に分岐して、売上を増やす方法は、①商品の単価を上げる ②販売数を増やす ③ある商品が売れると関連する商品も自然と売れるようにする(左記①と②の中間的な位置づけ) のいずれか或いは全部です。一方、費用を減らす方法は、④固定費を減らす ⑤変動費を減らす のいずれか或いは両方です。人を採用すると固定費が発生しますので、<④固定費を減らす>と相反します。ということは、企業が人を採用しつつ本業で利益を増やすには、採用により発生した固定費を、①か②か③か⑤、或いは人件費以外の④をもってペイしてお釣りがくるだけのパフォーマンスを発揮する必要があります。そして、これには前提があります。「商品があること」です。当たり前の事かも知れませんが、商品が無いことには、単価も販売数もありません。まして関連商品もありません。商品の製造・販売に伴う固定費と変動費もありません。「商品があること」は、単に商品が存在することではありません。その商品が魅力的である・顧客に販売する場や機会が確保されている・現実に買ってくれる顧客が存在する、などの要件を満たして初めて「商品」になると思います。その「商品」は一般に人が作るものです。しかし「商品」がなければ人は集まりません。売るものが無いからです。企業側としても、その状態で人を採用したところで意味のない固定費を支払うだけです。そうはいっても人がいないことにはそもそも「商品」を作れません。人件費というものを考えるとき、前提として自社に「商品」が果たしてあるのか・ないのか、というのは基本的な問いの1つだと思います。この問いをスキップして人件費にまつわる様々な課題や、人手不足、採用のミスマッチ、組織の士気低下などを嘆いても、おそらくどこにも行き着かないように思います。少なくとも企業である以上、人の問題は、すなわち商品の問題であると思います。ライン部門・スタッフ部門に関わらず。

2023年11月16日

こんにちは。
今日はJ-REITのとある銘柄を購入しました。NISA枠内での少額購入です。ポートフォリオ一覧に自分と縁の深いオフィスビルが含まれている銘柄を選びました。数値面はあまり見ていません。一般に、不動産を小口化することは、原債権者・投資家の双方にメリットがあるとされています。大きくて扱いづらいものを小さく分けて流動性を高めるというだけでなく、投資先もポートフォリオ構成で分散させるわけです。その分、実物不動産それ自体に対する主観的な愛着や思い入れも散逸し、代わって世相や経済合理性といった数値化可能なものが投資判断基準の前面に躍り出るように思います。今では証券化の対象が映画やアニメ、音楽など知的財産権の分野にも広がっているそうです。広義のシェア経済と言えるかも知れません。昨今、貯蓄から投資へなどと謳われています。個人的には、利益だけが目当てなら投資はしない方が良いと思います。経営姿勢に共感するから投資を通じて応援したい、あるいは、間接的に事業に参加してみたい、という動機が一番だと思います。こうした考えは、プロの投資家からすれば噴飯ものかも知れませんが。最近、別件でとある地方債も買いましたが、利率など雀の涙です。ただ、個人的に注目している都市であり、債券購入を通じて都市計画をより深く知るきっかけになると思い、買ってみたという次第です。こうした投資は楽しいものです。なんだか一緒に成長している気にもなれます。極端な大損は困りものですが、小口ならダメージは最小限で済みます。貯蓄から投資へなどと謳う前に、企業や団体の基本的な活動に興味・関心が持てるよう基礎教育の段階から知識や情報を充実させるのが先だろうと個人的には思います。全くやっていないわけでもないでしょうが、こうした基本を半ばスキップさせられる形で、暗記や計算を中心とする教育を受けてきた今の大人たちに向かって、ただ貯蓄や内部留保を吐き出せと言うのでは説得力に欠けます。投資する側もこのようなスローガンに耳を傾ける必要は無いと思います。投資を受ける側も、たとえ表向きの理由は資金調達であっても、やはり自分たちの事業活動に対して投資家がどれくらい理解や共感を示してくれるかという方にこそ中核的な関心があると思います。そうでなければ持続可能でないことを、投資を受ける側こそが一番深刻にわかっているはずだからです。

2023年11月15日

こんにちは。
法律とか制度と呼ばれる決まり事は、基本的に現実の後追いでこしらえられるものだと思います。例えば、人々が思いもしない方法で悪いことをする人が現れる。現行の決まり事ではその人を懲らしめることができない。だから新たな決まり事を作ろう(あるいは今の決まり事を改訂しよう)というわけです。そして、新たに誕生した決まり事は、先の悪人はもちろんのこと、まだ悪いことをしていない善良な人々の今後の意思決定や行動をも規定します。人の行いが決まり事を生み、決まり事が人の行いを規定し、また人の行いが決まり事を更新するという感じです。社会的な営みは決まり事によって構造化されている、という風にいえるかも知れません。仕事をしていると、決まり事を意識せずにはいられません。知らなかったでは済まされない重大な決まり事もたくさんあります。しかしそれに捉われ過ぎると、主従関係のようなものがだんだんわからなくなります。物事を、今ある決まり事にフィットするようデザインし始めるといよいよです。仮にそれで完璧なデザインができたとしても、それは決まり事を単に破っていない・あるいは・決まり事が定める制約条件下で効用を単に最大化させたというだけで、初心の志が置き去りにされているように感じられるからです。企業が政府の補助金を使って設備を導入したりする状況では、こうした主従関係の逆転がよく見受けられます。補助金の交付額ができるだけ大きくなるよう、元あった事業計画を、補助金の交付要領の方に迎合させるわけです。もっとひどいケースでは、利用可能な補助金から逆引きする形で新規事業を構想する人さえ存在します。以前、公的機関の経営相談窓口に座っていたとき、そのような補助金活用の相談に来られる人としばしばお会いしました。事業計画書を拝見すると、明らかにちぐはぐです。しかし相手は(公的機関の)お客様です。単なる窓口役に過ぎない私には、通り一遍の助言を提供する事しか許されません。補助金はもとより、こうした窓口の運営費もまた、大もとの原資は事業者や生活者が納めた税金です。経済活動が生み出す余剰の一部が納税され、それを原資とする新たな経済活動の創出のために補助金が生み出され、その補助金が事業者の今後の意思決定や行動を促す潤滑油になるのは良いとしても、肝心要である事業者が補助金に目がくらみ大義を見失うというのは何とも本末転倒という気がします。

2023年11月13日

こんにちは。
企業において、組織目標と従業員個人としての思想や価値観は必ずしも調和しません。鋭く対立する時もあると思います。どちらの言い分にも一部の理がありそうです。すると、次のような問いが立てられます。①組織と個人が調和するとはそもそもどういうことか? ②組織と個人が調和すると、それぞれにどのような正・負の効果をもたらすと考えられるか? ①について。組織と個人が調和するとは、例えば、双方の言い分の妥協点を見出すことか? あるいは、ほぼ完全な形での両立を達成することか? あるいは、ベン図を想定して互いに重なり合う「理想」の面積を漸進的に拡大させていくことか? 組織の側は理念や長期ビジョンといった形で組織自身の思想や価値観を開示することはあっても、個人の側は必ずしも同じことをするわけではない。では組織は、個人のプライバシーに立ち入らずして彼の根源にある思想や価値観を理解することは可能なのか? など、派生的な問いに広がっていきます。②について。期待効果が正にせよ負にせよ、それはどの組織にも・どの個人にも普遍的に期待できるのか? 期待効果の中身や程度は、組織や個人の置かれた成長段階に関わらず一定なのか? など、こちらも派生的な問いに広がっていきます。そのように展開していくと、最終的には調和などどうでもよくなっていきます(私の場合)。やさぐれた意味ではなく、さほど執着するものではないという認識上の距離化です。いわゆる組織論の教科書的な手本では、組織は理念や目標を組織内に浸透させるべきとされ、従業員はそれを判断の拠りどころとして受容すべきとされています。一見もっともらしいですが、本当にそうだろうか、と思うようになってきました。よく「同じ方向を向く」といった表現を見聞きしますが、自浄作用のないカルト的集団に思えなくもありません。同じ方向を向くことを従業員が「自分で決めた」のであっても、その「方向」が組織から選択肢として与えられ、それを選ぶ(右にならう)のが当該従業員にとって単に合理的であると理解されたものなら、不安が残ります。それは見かけと異なり、本当に「自分で決めた」ことにはならないからです。背信行為や不法行為、利益相反などは論外としても、従業員が自ら選択肢を作り、自ら選ぶ。組織は、そうした従業員の自己決定が円滑に機能するようサポート役に徹し、障害の予兆を検知したときのみソフトに介入する。従業員もまた、そうした組織のスタビライザー的役割を否定しない。そのような在り方が望ましいと思うようになりました。これを踏まえ、組織を運営する立場である私の現在の見解は、①従業員が、個人としての「安全保障感」と自然な欲求の発露による「生の活動」が共に満たされ、②その緩やかな延長線上に、彼の思想や価値観とは必ずしも相容れない組織目標なるものの存在を認識する(しかし必ずしも同意するわけではない)くらいで良いと思っています。それは、理解し得ないという消極的な了解をテコに調和を目指す否定神学的発想ではありません。どちらかといえば、積み上げ型の構築を念頭に置きつつも、その積極性がオーバーヒートしないための制御機構を組織内部に備えておくという工学的発想です。

2023年11月10日

こんにちは。
人に親切にすることは、親切を受けた相手がそうとわからないよう配慮するところまでを含む、という考え方があります。相手に、「親切ですね」とか「ありがとう」などとわざわざ言わせないということです。過去にそうした趣旨のエッセイを読んだことがあります。たしかにその通りだな、と感じます。実際にそうした親切心を体現したお店などもあります。先日、スタッフと一緒に訪れた喫茶店はまさにそうしたお店でした。お店の名前は控えますが、商業ビルの喧騒の中にありながら店内は静かな親切心がふわふわと漂っているようなお店です。親切の中身1つ1つは決して高度にテクニカルなものではありません。しようと思えば子供にでもできることです。しかし、しようと思いつくのはそう容易な事ではありません。ほとんどの大人には不可能でしょう。客の方は、観察モードに切り替えて念入りに見ない限り、その店に漂う親切心の存在に気づくことは難しいと思います。仮に気づいても、それを言葉で形容するのもまた難しく、親切という他ないような「何か」です。その点、いわゆる高級ホテルなどの分かりやすいおもてなしはかえって有難迷惑に感じられます。これでもかといわんばかりの配慮や気遣いの連続で、客の方もいちいち意識させられます。金欲しさにここまでするのかと思わず吹き出してしまいそうになるくらい滑稽な瞬間さえあります。どうすれば、相手に「ありがとう」と無理に言わせない親切が可能になるのでしょうか。本当はとてもシンプルな事だと思います。先に記した喫茶店は、私にとって見習うべき先達です。

2023年11月9日

こんにちは。
自由には、消極的自由と積極的自由の2種類があるそうです。イギリスの哲学者バーリンという人が提唱した概念です。消極的自由とは、他人から強制や束縛を受けることがないということです。積極的自由とは、自分の力で選べるということです。他人に力点を置けば消極的自由、自分に力点を置けば積極的自由というわけです。これとは別に、たとえ本人が意のままに決めたり行動したつもりでも、それが欲望や一時の感情にとらわれてそうしたことなら自由とはいえない(=欲望の奴隷である)という考え方もあるそうです(カント)。ここまではなんとなく分かります。問題はその先で、人は心から自由を望むのか。仮に望むとしたら、理由は?という疑問があります。多くの場合、自由は機能主義的な意味での「手段」として認識されている気がします。つまり自由の概念やそれが具現化されたある静的な状態、それ自体を欲しているというより、自由の先に別の目的がある。自由とは、その目的達成の要件であると認識されているということです。もし自由が、手段として機能的に役に立たないものなら、人は必ずしも自由を欲しないと思います。例えば、誰かに命令されている方が気が楽だ、というような状態です。では、自由を手段として欲する場合、自由の先にある目的は果たして明確か? 必ずしもそうではないと思います。何に使うかは未定だが後々困らないよう「とりあえず貯金する」のと似た感覚で、何をするかは未定だが後々困らないよう「とりあえず自由でいたい」という精神状態があり得るからです。手元資金が増えれば財務指標でいう流動比率が上がり、短期的な安全性が確保されます。同様に、自由が増えれば、「その気になればいつでも何でもできる」という安全保障感に満ちた気持ちになります。しばしば人が自由を望むというとき、これになっていないでしょうか。もしそうなら守銭奴とそう変わらない心性と思います。もっとも守銭奴が一概に悪いというどんな理由もありません。いま自分が望んでいる(あるいは望んでいない)自由とは、機能的にどんな働きをする「自由」なのか?と問うてみるのも一興ですが、考え始めるとなかなか大変なテーマであると思います。

2023年11月8日

こんにちは。
ユーザーの声を聞いて商品を改良した結果、不評に終わる。それどころか長く愛用してくれていたユーザーまで離れていく。こうしたことはよく起こり得ると思います。ユーザーにとって商品の良さは漠然としていることが多いからだと思います。愛用している商品の「良さ」や「改善の余地」を問われる形で、ある日唐突に言語化や数値化を迫られると困ってしまうものです。全体としてまとまりのあるものをわざわざ要素に分解し、脳内であれこれ編集した内容を、質問者に対して回答として差し出さなければなりません。かなりの負担です。質問した側も、その内容を真に受けるかどうかはともかく、はっきり言葉や数値として差し出された回答をむやみに棄却するわけにはいかなくなります。そのようにして、お互いそのつもりではなかったはずなのに、結果として元あった良さが失われるという残念な事態が生じるのだろうと思います。では、改良の試み自体が無駄なのか?といえば、そうではないとも思います。商品を提供する企業側としては、現状維持に留まるわけにいかず、そのようにして前に進んでいく他ないからです。商品の改良結果をユーザーがどう評価するかは、究極のところ偶発的です。いろいろ理屈を付けることはできても、後知恵です。売れる商品は、売れたから売れたのです。プライベートで親しい友人や恋人と一緒に居るという事実を、何かの要素に還元しても意味がないのと同じです。しかしそれを言っては身も蓋もありません。経営者の常套句として、「データを駆使しても最終的には直感で決める」といったものがあります。これは、経営上の意思決定が要素の総和であるはずもないという点において、商品を評価するユーザー心理と相似形を成しているように思います。しかし、経営者にせよユーザーにせよ、今とは違う地点に行こうと思ったら、結局は要素の抽出と吟味から入っていく他ないと思います

2023年11月7日

こんにちは。
情報処理(IT)の分野では、ある要求に対して、順番に処理するか同時並行的に処理するか、あるいは、1台のマシンで集中して処理するか複数のマシンで分散して処理するか、あるいは、処理結果をリアルタイムに返すかあとでまとめて返すか、などといった事が検討されます。ビジネス一般でも同様だと思います。顧客から商品の注文を受けた際、顧客ごと順番に作るのか同時並行的に作るのか、あるいは、多能工なスタッフが集中的に作るのか複数のスタッフで役割分担して作るのか、あるいは、作ったその場で納品するのか後日まとめて納品するのか、といったように。業務効率化の初歩的段階では、①業務の棚卸しを行い、②各業務を作業単位に分解し、③各作業単位の特性を検討し、④その特性に応じて効率の良い処理パターンを決め、⑤新たな業務体系として組み立て直す、というふうに整理すると、比較的容易に目的は達成されると思います。工学的には、分解→変更→再統合という感じでしょうか。場面を変えて、私生活の場合はどうでしょう。1日30分のウォーキングを1週間毎日やるのと、その1週間分の合計と同じ量のウォーキングを週に1日限りやるのとでは、前者の方が健康的であるように思います。一方、習慣的に少量の飲酒をする人と、たまの会食で大量の飲酒をする人を比較する場合、予防医学的な観点から見たら、後者の方に分がありそうです。このことから、健康に良いと思われる行為は身体のバイオリズムと同期的かつ分散的に、良くないと思われる行為は非同期的・集中的に行うようにすることが、トータルのパフォーマンス面で良好という気がします。厄介な仕事なども、いずれしなければならないのなら、ちまちまやらず一気に片づける方が精神衛生上好ましいように思います。

2023年11月6日

こんにちは。
少し早めですが、今年一年の振り返りをしました。残り2か月弱の成果は現時点で推定される見込みです。根がせっかちなのか、人より行動が遅いせいかはわかりませんが、12月になって一年の振り返りをするのでは遅いと感じます。それはさておき、いったん心の中で振り返りした内容を文章や図表に書き起こすわけですが、私の場合、それをしたところで提出先はありません。会社の代表者で、同時に株主(実質的支配者)でもあり、金融機関等から借り入れもしていないという場合、報告の宛て先となる上司や利害関係者が存在しないためです。中小企業の経営者や個人事業者の中には、私と同じ立場の方もおられるかと思います。では、私の場合、なぜわざわざ文章や図表に起こすのか。その理由は自分でもわかりません。かつてサラリーマンとして「書かされた」時代の名残りかも知れませんし、書き留めておかないと安心しない性分なのかも知れません。提出を前提とせず、また、書いた本人もその後読み返すこともない文章や図表。体裁を気にせず自由に表現できるという利点はありそうです。さて、「上司」を持たない経営者が、判断に迷った際、心の中のメンター的存在や幼少期の自分に尋ねるといったエピソードを見聞きする事があります。その感覚が私には明瞭には分かりません。文学的にどこか感傷的で美しく、頭では共感してみたいと思うものの、私に限っていえば、幼少期の自分など知的水準は著しく低く、重要な意思決定の参考人になるとは思えません。一定の語彙や計算力を身に着けた青年期の自分でさえ、まだ社会に出ているわけでもなく、わざわざ尋ねるほどの相手とも思えません。同じ自分に尋ねるなら、過去の私より、今より一歩先にいる「私」を相談相手に選ぶのではないかと思います。私の意思決定の直接の影響を受けるのは、一歩先にいる私自身です。その「私」が困ったことにならないよう、できる限り配慮する。従業員や顧客などの利害関係者を仮想問答の相手に採用する場合も、過去ではなく、現在でもなく、遠い未来でもなく、今より一歩先にいるその人たちを選ぶと思います。その方がずっと誠実な気がします。心の中のメンターや幼少期の自分に尋ねるというのは、何か祝祭的ムードの中で口にする台詞としてならともかく、成否が不透明な局面で経営者が現実に採用すべき手段ではないと思います。仮に、経営上の致命的な判断ミスをして、株主総会等で意思決定のプロセスを問われた経営者が、「幼少期の自分に尋ねた」などと釈明したらどんな印象を受けられるでしょう。

2023年11月5日

こんにちは。
何かを予想することは、自分以外の他人が予想するであろうことを予想することを含むことがあります。美人投票(ケインズ)などはこれだと思います。予想的中率を上げるために麻雀でいう三味線行為に走る人もいます。今やひとたび何かを発信すれば、即座に他人の「予想」を醸成してしまいます。一歩外に出たら「予想」だらけです。従って、予想は人を疲れさせる面もあると思います。近年、多様性の尊重が目指されています。これを言い換えるなら、他人の予想を予想する必要は無い、なぜなら私は私・貴方は貴方だから。と解釈することもできます。しかし、多様性を尊重するには、他人の予想を予想する必要がある時もあります。例えば、ある性的少数者が自身のセクシュアリティについて、「人に話したら笑われるかも知れない」と悩んでいるとき、その予想(笑われるかもしれないという予想)を、彼(彼女)以外の他人が予想できる能力や配慮がなければ、無神経にも彼(彼女)の自尊心を傷つけてしまうでしょう。一方、性的少数者に対する偏見や差別意識を全く有しない、真に公平中立な人であるほど、『性的少数者が「笑われるかも知れない」と自ら予想している』などとは予想しにくいというアイロニーもあると思います。なぜなら公平中立な彼にとって、性的少数者が自分のセクシュアリティが笑いものになることを予想していると予想することは、性的少数者に対して失礼極まりない「下衆の勘繰り」であるはずだからです。このようにして、多様性の尊重と共感力の訓練とが奇妙なねじれをもって叫ばれる事態になっているように思います。他人の予想に縛られる必要は無いと、ある種の断絶を志向する多様性と、他人の予想に敏感であれと、より高次の統合を志向する共感力。どちらも大切に違いないと思いますが、距離が近いようで遠い両者の往復に疲れ果てている人も存在するのではないかと予想します。

2023年11月4日

こんにちは。
経営コンサルタントがあれこれ考える際に用いる基本的な分析ツールは、2軸が直交する4象限マトリクスや物事の次元・段階を4つの視点で整理するものが多いです。例えば、SWOT(①強み②弱み③機会④脅威)や、マーケティングの4P(①product②price③promotion④place)、プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント(①花形②金のなる木③問題児④負け犬)、組織のライフサイクルモデル(①起業者段階②共同体段階③公式化段階④精巧化段階)、バランススコアカード(①顧客②財務③業務プロセス④学習と成長)など。「4」という数字は何かと使い勝手が良いのかも知れません。短期記憶で保持できるチャンクの数としても収まりが良いです。時に、ツールとしての有用性(役に立つのか)が議論されることもありますが、知っておいて損は無いと思います。クライアントが、コンサルタントの手口をある程度知っておくのは有益な事と思います。一般の手品と違って、コンサルタントが仕掛ける言葉のマジックは、ねたが割れている方がずっと健全です。当店が、特に知らなくても事業や生活に支障がないような高度な知識までも顧客に提供する目的の1つは、コンサルタントの「物は言いよう」に幻惑させられないよう顧客を保護する事です。コンサルタントを含む専門家と称する人たちが、顧客を無知な状態に留め置き、思考停止状態に追いやるような「支援」をするのは、ある意味、重大な背信行為です。

2023年11月3日

こんにちは。
名を捨てて実を取ることが盛んな世の中という気がしますが、もう一方では誹謗中傷に対する意識の高まりなど、薄れゆく「名」への未練が根強く残る世の中という気もします。猛スピードで変化していくものと、ゆっくり変化していくものとの速度差が大きくなった結果、その時々でどちらに軸足を定めたらよいか、多くの人が戸惑っているようにも思えます。俯瞰的視座からそう思うのではなく、一定の年齢になれば誰もが当事者です。実を取る場合、どうしても瞬間風速が重視されるでしょう。その場のインパクトや軽妙な小技がものをいう世界です。すぐに陳腐化することも、そうと弁えつつ余儀なく合わせないといけない場面が多々あります。なんだか株主総会に戦々恐々とし、要らないものを買ってまで損益計算書を着飾ることに余念がない雇われ社長みたいです。一方、名を取る場合、蓄積がものをいうでしょう。量より質がものをいう世界です。すぐには役立たないことも、そうと弁えつつ地道に石を積み上げていく必要があります。こちらは貸借対照表型のようです。企業の決算は原則として1年単位です。しかし暦は人が勝手に作ったものです。過去の人が便宜上の理由から作ったものに現代の人が振り回されるというのはよくある事だと思いますが、自分自身を含め、最近ではそうした状況の散見が目に余ります。どんな出来事も一度きりのはずです。その含みを味わう権利を自ら放棄してまで果たして何をそうあくせくするのか。それを問う余裕さえ与えないというのが、今の世の中の厄介な一面である気もします。

2023年11月1日

こんにちは。
「計画」や「マネジメント」という言葉にはどこか防衛的な響きがあります。これらが、不確実性やその影響をできるだけ可視化・最小化しようとする活動一般を成す諸要素に見えるからなのかも知れません。計画立案後の現実の行動や外部からの攪乱が、その計画に関わる人たちの経験則や認知枠組みを更新するのはよくあることだと思いますが、「まさか」の排除を使命とする管理者からすれば、こうした学習は歓迎しがたい事かも知れません。ところで、今の若い人はどうか知りませんが、私が学生の頃、例えば受験に際して計画的に勉強したことはありませんでした。ましてマネジメントなど概念のかけらさえありません。あるのは、勉強したいという気持ちです。あとは、書店で購入する参考書や文房具など質素な道具。もちろん合格したいという気持ちはどこかにあります。しかしそれは「目標」などという御大層なものではなく、少なくとも不合格を目指すわけではないという程度の淡い感覚(想像界)だったろうと思います。もしこれが「理想」や「目標」などという象徴的な形式を取っていたなら、受験科目以外の勉強は手を抜いていたことでしょう。更には、合格に必要な状態(=理想)と現在の学力(=現状)とのギャップから戦略と課題を抽出し、それを定量的な学習計画へ落とし込んだ上、PDCAサイクルを回すといった小賢しい学生に堕していたでしょう。身近にもそうした要らぬ助言を浴びせかける「コンサル」がおらず、恵まれた学習環境だったと思います。知りたい。楽しい。わかった時の嬉しさ。そうした気持ちは、自己防衛やリスクマネジメントに汲々と勤しむ憶病とは対極に在るものだと思います。