スタッフダイアリー

2024年4月10日

こんにちは。
「知識」で導き出す計画はおおむね合理的です。多くの人から否定されにくい計画といえます。つまり、代替案の中で最も減点が少ない計画です。もっともらしさを感じる。論理的にみて、これ以上の計画は存在しないように思える。そのように構想した計画には、「本当にそうか?」という疑問や違和感が残ることがあります。こうした違和感が解消されないうちは、その計画をまだ実行に移さない方が良いと思います。「知識」をもってある対象を捉えることはできても、限定的です。そうなってしまうのは、「知識」のせいではなく、また、知識を用いる「人」のせいでもない。足りないのは「観察」という気がします。つまり外部的な視点が無い。計画の代替案の中で相対評価をしているだけで、その代替案を1つのグループと見立てた、より大きな枠組みでの相対化が為されていない。もっと単純化すれば、計画を構成する種々の要素について「比較」する回数が足りていない。視野狭窄の中で精一杯こしらえた選択肢の中から選ぼうとしている。というより、何かを選ばされているような気がする。もはや計画というより数合わせに近くなっている。いつも必要なことは、「外」に出て、自由気ままに「他のもの」に触れてみることだと思います。多くの人にとって問題なのは、それをするだけの余裕の確保であるとも思います。

2024年4月1日

こんにちは。
批評や思想に触れることの意義は、内容の理解や正否というより、「論理」の外に出ることだと思います。人は、自らの内部に蓄積した有限の論理で日々、ものを考え、選択している。しかしそれでは行き詰まる。それを突破するには「論理」の外に出る必要があるということです。但し、論理の外もまた「論理」です。つまり「論理の外」というのはあくまで修辞であって、「外」が実体として在るわけではない。また観念的に在るわけでもない。便宜上、「外」と表現するしかないような「何か」に向けて、常に移動しつづける感じだと思います。最終審級は常に存在しないということです。難しく書きましたが、要は、常識を疑うとか、前提を疑うといった類いです。企業経営において、なにかを成し遂げたいと思うとき、経営者は逆説的に「私」の外に出る必要があると思います。「私」のアイデア、「私」の考えなど、たかが知れている。私が「私」の内に留まる限りは、真に望むものは達成できない。という漠然とした感覚ですが、言うまでもなく、そうした感覚もやはり「私」の内に在ります。普通に生活していると、そうした思考のダイナミズムというものは忘れ去られがちです。というより、そんなことをいちいち意識していると日常生活は前に進みません。日常生活にある種の停滞や倦怠の兆しが訪れたとき、その日常生活を支える「論理」の外に出ることの大切さを思い出したいものです。批評や思想とは、ほとんどそのためにあるものと思います。個々の内容自体は、時代性や書き手の実存が深く刻印されていて、あまり参考にはなりません。直接的に何かの役に立つこともありません。いくら示唆に富んでいようともそれらは娯楽の範疇です。大切なのは、「その人」がどのようにして「外」に出ようとしたのか。その思考の軌跡です。批評や思想とはそういうものです。だから内容自体は古びても時代を超えて必要とされるのだと思います。

2024年2月22日

こんにちは。
パーキンソンの法則というものがあります。仕事の量は、完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張するということらしいです。完成まで1時間かかる仕事も、2時間与えられたらその分だけ仕事を薄く伸ばして2時間使い切るということです。法則外にはなりますが、逆のケースもあると思います。1時間の仕事に対して30分しか与えられなかったら、その分だけ仕事を圧縮して30分に押し込めるということです。考えてみたら、1日8時間労働というとき、どんな条件下でも・毎日・必ず・キリよく・8時間で仕事が終わるという事態は有り得ないと思います。8時間で終わるように調整しているだけです。つまり所与の資源(この場合、時間)が人の活動量を規定している面がある。では、企業という単位で見たとき、例えば従業員を増やすなり外注先を新たに確保するなりして、所与の資源(時間)を増やすとどうなるのでしょう。当然、その分だけ企業としての活動量は膨張すると思います。では、それは当該企業にとってプラス(利益)になるのか?といったら、ケースごとに枝分かれすると思います。機会損失の状況があり、時間=人さえ増やせばロスを解消できることが明らかな場合は、単に増やせばいいということになりそうです。しかし事はそう単純でもないと思います。例えば、ある状況下で、従業員一人が生み出す売上総利益が100万円、その従業員の人件費が50万円、人件費とは無関係の固定費(=共通経費)は0円とします。結果、従業員一人あたりの営業利益は50万円です。その状況下で、機会損失をカバーすべく同一条件で従業員を一人増やしたとします。売上総利益は倍の200万円、人件費も倍の100万円、営業利益も倍の100万円になります。企業の営業利益額は50万円増えましたが、営業利益率は変化していません。また、従業員一人あたりの営業利益額や営業利益率も変化していません。つまり総体としてキャッシュは純増したものの生産性は全く変わっていません。すると、その企業にとって、時間=人を増やせば生産性が上がるかどうかは、共通経費にかかってくることになります。時間=人の増加に比例して共通経費も単純に増加するようなら、やはり生産性は全く上がりません。従業員一人あたりの共通経費が、従業員の増加に伴い逓減するような条件下で初めて生産性が上がることになります。しかしその上昇度合いについては、余程のスケールを確保しない限りたかが知れていると思います。時間=人が増えたとき、その分だけ単に生産量が増える、あるいは、共通経費がスケール効果で逓減するというだけでは、企業にとって真の意味でのプラス(利益)はもたらされないと思います。むしろ従業員間の調整コストやコンフリクトにより生産性が低下する恐れさえあります。企業にとって所与の資源の増加は、それが単なる足し算であるより、強いブースト効果をもたらす「思わぬ副作用」が伴う必要があるように思います。では、その副作用の触媒となるものとして、何が考えられるでしょう。私の場合、その1つは「教育」であると思います。そして、それこそが多くの企業にとって壊滅的に不足しているようにも思います。たぶん余裕が無いからでしょう。仮にそうした状況でAIなどを導入しても仕事が楽になるだけでやはり生産性の向上は皆無です。仕事が楽になる事自体はとても良いことなのですが。

2024年2月19日

こんにちは。
仕事の合間のちょっと一息というシーンで、それまで断片的だった思考の要素がいい感じに“結集”されるタイミングがあります。それを急いで書き留めようとすると、残念なことに「何か違う」感じになります。おそらく力が入ってしまうとダメなんでしょう。よく朝に妙案が浮かぶのも、睡眠によって思考が整理された結果というよりは、単に力が抜けているからという気がします。このように、思いついたことを言葉で書き留めておこうとするときに生じる独特の「困難」があるように思います。新規のアイデアなどは特にそうだと思いますが、それは既成概念を更新する営みであるはずです。しかしその更新作業によって得られた新たなイメージなり知見なりを、いざ書き留める営みの方へと移そうとすると、まさに既成概念と一体化した既成の言葉に頼ることになります。その点にどことなく不本意感があり、妙な力が加わってしまうのだと思います。かといって書き留めないままにしておくと、せっかく結集したアイデアも再び断片化して空気中に散ってしまいます。①ひとまずはキーワードを残しておき、②あとでいつでも想起できるようにしておきつつ、③性急な言語化は控え、④しばらく寝かせるのが良さそうに思います。要するに、温めておくということです。ここまで書いて、なにかそんな感じの思考整理術を書いている作家がいたな、と思い出しました。

2024年2月18日

こんにちは。
仕事をする中で独自の理論っぽいものを作ることがあります。自身の頭の整理のためであったり、顧客の問題解決のヒントを探るためであったり、動機や用途は様々です。その際、学問的な意味での厳密性は大幅に捨てています。理論の素となる学説やフレームワーク等についても、おかれた状況に合わせて都合よく転用しているため、そもそも厳密性も何もあったものではありません。また、こうした態度さえも「満足化原理」的に前向きに捉えます。知識はストックです。時代に合わせて都合よく解釈を変えながら有効活用していくのが、ある意味では学問的に誠実な姿勢とさえ思います。それでいえば、先日ふと思い立って、民俗学や文化人類学における「ハレとケ」の世界観を、経済学における「需給ギャップ」の問題に強引に接続し、経済行動における「価値」の一面を思考するという作業をやってみました。はたから見たら滅茶苦茶な発想でしょうが、個人的には満足のいくアウトプットができたと感じています。学問とか理論と呼ばれるものの楽しみ方の1つは、こうした誤用、転用、あるいは互いに無関係と思われる問題系の主観的な接続から得られる意外性の発見にあると思います。

2024年2月14日

こんにちは。
これまでの人生で小説を書いたことはありませんが、小説家の仕事というのは基本的に1人でするものと、私は認識しています。分業制ではないということです。小説は、2人以上の小説家が集まり、パート毎に分かれて書いて、最後にくっつければ良いという性質のものではありません。最初から最後まで1人で書き通すものだと思います。中小企業における経営者の仕事もそれに似ています。現実に役員が1人しかいないという場合はもとより、役員が仮に複数人存在する場合でも、基本的には代表者の独裁であることが多いと思います。所有と経営の一致こそがその要因の1つでしょう。中小企業の経営者は、良くも悪くも自由度の高い仕事環境に身を置いている分、制約条件やロジックやしがらみといったものに汲々とすることなく、あたかも小説を書くように専制的に事業を運営しているということです。そんな中小企業の経営者が、同時並行する複数の仕事(仕事間の関連性は低いものとする)を自身でマネジメントするとき、大きく2つの方法に分かれると思います。一つは、仕事毎にベストなパフォーマンスを設計し、最後に組み合わせる方法。もう一つは、キーとなる仕事を1つ選び、他の仕事はそれに従属させる方法。前者をバランス型、後者をメリハリ型と呼ぶことにします。全体への目配りが必要という職責を踏まえるとバランス型がベターに思える一方で、上記のように、自身が置かれている仕事環境を踏まえるとメリハリ型の方がマッチングが良いようにも思えます。実際問題、仕事の多重度が増えてくるとこの選択に係るジレンマは切実になってきます。バランス型では各仕事の進捗は非常に遅々としたものとなり、メリハリ型では犠牲にしなければならない案件がたくさん生じるからです。だからといって、「他の小説家を連れてくる」手もとれません。最初から最後まで1人で書き通さなければなりません。会社を所有せず、単に経営しているだけなら、そうしたジレンマはあまり生じないと思います。全体に目配りすれば済むからです。つまりバランス型で良いわけです。会社を所有すると、全体に目配りするだけでは足りません。所有価値がそのまま経営者自身に直結する分、所有責任は重たくなります。小説家が利害関係者に配慮するあまり自身のポリシーに反して作品が支離滅裂なものになったら、その結果はほとんど全部自分に返ってくるのと同じです。代わりに誰かが書き直してくれるわけでもありません。それで時にバランス型、時にメリハリ型といった往復をすることになります。考えてみれば不思議なことです。制約条件やロジックやしがらみといったものから相対的に自由な仕事環境に置かれている割には、あまり自由な感じがしません。たとえ制約付きでも分業制のメリットを存分に享受できる「所有だけ」とか「経営だけ」の方が楽な気がします。「所有だけ」なら、まずい経営者がいたら交代させればいいだけです。「経営だけ」なら、所有者によるコントロール配下に置かれてはいても、所有に伴う有限責任を最初から免除されています。あくまで個人的なイメージですが、所有も経営もしている中小企業の経営者があまり「息抜き」が上手でないように思われるのは、こうした事情が絡んでいると思います。中小企業診断士と呼ばれる人たちは(私もですが)、経営者のこうした事情をどれくらい肌身で理解できているのでしょうか。